枚挙に暇がない

自分の脳内を形にしたい

「    」

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――霧笛だ。霧笛が呼ぶんだ。
無機質な暗闇にゆらゆらと動く一筋の光と一人分の足音。一面闇だった舞台がぼんやりと照明の光のベールに包まれ、スーッと影が伸び、背中のシルエットが見えてきた。役者が一つ二つと紡ぐように言葉を出す。舞台に鳴り響く、  ボーっという肉声が自然と霧笛の音に変換される。
――そして、やっとやってくる、やってくる……。
あぁ、惹きこまれる。その時、そう思った。


 幼い時から、たぶん物語と名のつくものが好きだった。絵本も好きだったが、小さい時は字が読めず、大人に読んでもらうしかなかった。手っ取り早く、物語を見るにはテレビが一番だった。テレビなら自分のペースで見れるし、大人がいなくても大丈夫。必要があれば自分でビデオデッキも使えるし、と子供ながらに周りに気を使った結果、テレビっ子になった。物心ついたときには、時間があれば常に弟とブラウン管にはりつき、大きな箱の中に広がる世界を見ては、将来の夢を膨らますような子供だった。私たち姉弟が見る番組は特撮、ドラマ、アニメ、バラエティ、人形劇と様々だったが、特に仮面ライダーウルトラマンなどの特撮ものと時代劇を好んでみていた。侠客ものや股旅ものなど、人情を取り扱ったものに小さい時から泣かされていたおぼえがある。番組と番組の間は、弟とのチャンバラごっこタイム。
「炎魔一族め!吾輩が成敗してくれるわ!」
「おのれ!この桜の門が目に入らぬか!」
何もかもごちゃまぜの殺陣劇を広げながら、お互い疲れたらまた番組を見るなんてことが習慣だった。


 物語に触れる機会はほかにもあった。母方の祖母の家に週末泊まりに行くと、夜、祖母は自分のベッドで弟と私に語りをしてくれた。お題はだいたい森鴎外の「山椒大夫」などの昔話だった。背中をやさしくトントンと均等のリズムで叩いてくれる祖母の温かい手と、少しだけ濁りを含んだ落ち着いた声色の語りは、眠るのにとても心地よいものだった。また、祖母の家は、代々演劇家系で、家族の公演する人形浄瑠璃などを見にたまに大阪の国立文楽劇場に連れて行ってくれたりもした。特別な習い事をしなくても自分の周りは「お芝居」や「語り」など、「物語」で溢れていた。
 そんな環境があってか、小学校高学年にもなると、私は音読や読み聞かせなどの文章を声に出して読むことが好きになっていた。小学校二年生から、大好きな母方の祖父母と暮らすようになっていた。学校から帰ったら、祖母のもとで音読をする。文章の裏側を想像しながら、気持ちをこめて音に出す。この宿題には評価カードというものがあったのだが、祖母は上手だねといつも花丸をくれた。


 「読むの上手いなー。びっくりしたわ。」
中学二年生の春。私の中で大事件がおきた。谷川俊太郎の「春に」を授業中音読した時のことだった。国語の先生に自分の読みをほめられた。純粋に読むことが好きなのは、中学になっても変わらなかったが、家の外で読むことはほとんどなかった。中学二年から国語の担当になった先生は、何かと生徒に音読をさせる機会のある先生で、読んだのは今回が初めてだった。読むスタイルは、昔と同じで言葉に気をつけながら、想像しながら読む。棒読みにならないように抑揚をつけてみたりはしていたが、それを授業中に気づいてもらえるとは思わなかった。私をほめる先生は、冗談とかそういうことを言う雰囲気ではなく真剣だった。


「前から上手いってほめられてたんと違う?」
「い、いや、言われたのは、初めてです」
「これからはあなたに読んでもらおうかな」
…それはさすがに冗談でしょう、先生。
 「よし、いってみよかー」


 それからの二年間、先生の宣言通り、ほぼ毎回音読の時間当てられた。だいたい先生と目が合うと当てられる。三年生の前半になると、友人や他の先生もほめてくれるようになり、家庭科の時間に読み聞かせを授業の一環でしたり、読む機会が増えた。
しかし、授業だけでは自分は満足できなくなりつつあった。部活には演劇部も放送部もなかったので、技術を磨いたり、自分を試せる場がほとんどない。そんな時、朗読コンクールに参加してみないかという話が出た。希望者を募り、オーディションで代表を決めることになり、一番目に名前を呼んでもらえた。一緒に選ばれた友人と二人で半年間、朗読経験者の先生に技術を教えてもらうことになった。コンクール用にと先生が持ってきたのは森鴎外の「高瀬舟」だった。京都の罪人を遠島に送るため、高瀬川を下る舟での弟を殺した喜助と護送役の同心である羽田との会話の一部を読むことになった。


「一体お前はどう思っているのだい」


今まで送ってきた罪人と違う穏やかな表情を浮かべた喜助に羽田が胸の内について問いかける場面。朗読コンクールの原稿上では、序盤の台詞なのだが、先生曰く読む癖の強い私は最初から徹底的に読み方の指導をされた。先生の読み方を聴いては、反復して自分も読むの繰り返し。最初は、自分の読みが悪いのだと熱心だったのだが、だんだん、オーディションで先生は自分の何を見て選んでくれたのだろうと疑問を持つようになった。自分の中の読むことへの純情に先生の指示する順序が追い打ちをかけてくる。日に日に先生の型に嵌められていくような気がして、フラストレーションがたまるようになった。でも、先生の言うとおりに抑揚も間も調整すれば、ほめてもらえるし、もうこのまま朗読コンクールを終えてしまおうかと思いかけたある日、先生の一言で自分の中の何かが爆発した。


「もう淡々とでいいから、機械みたいに言うとおりに読め!」


ふざけんな、と言いかけたけれど私は音を出すことなく閉口した。その日は、コンクールの前日だった
 本番は、先生の言う通りに読んだ。楽しさなんてこれっぽっちもない。陰鬱と感じられた本番に思ったことは無だった。ふと自分の出番が終わり、他校の子たちの発表をぼんやりと見る。落ち着いた声色に抑揚をつけ、体を揺らしたりほほ笑んだりしながら、楽しそうに読む子たちがいた。先生の言っていた、通りに読んでいた自分とは対照的だと思った。ふと、その子たちを見ていると小学校の時、祖母の前で楽しく音読していた自分を思い出した。原稿が自分に合わないと進言していたら、何か変わっていただろうかとふと考えた。自分がやりたかったのはあの子たち見たいな発表だったんです、先生。心の余裕を無くした自分の発表が恥ずかしくなって、私は控室の机に突っ伏した。
結果は、その子達が入賞。私も友人も結果は実らなかった。
 羽田の台詞が浮かんだ。


 「一体お前はどう思っているのだい」


自分はあの場で一つも楽しみを持たず、最低な読みをしてしまったと思う。それからは、残りの中学校生活の間、読むことが嫌になり、進学先の高校では、美術を主にやっていたので、完全に読むことから遠ざかってしまった。
 あれから、早くも四年がたち、私は大学二年生になろうとしていた。高校の時に知りあった四回生の先輩、4さんがきっかけになり、大学では、演劇関連の企画に参加することが多くなっていた。最初のお芝居参加になった劇団幻日第三回公演が七月に終わってからというもの、十二月の中旬まで企画参加とお手伝いで必ずどこかにいた。特に九月下旬から十二月中旬までは企画のかけもち期間で最高六つのやりたいこと(お芝居以外もあるが)をしていた。自分で詰めたスケジュールに首を絞められる自分を思い出すと、馬鹿だったかなと考えることもあるが、裏方・役者を何度かこなすうちに演出面・企画面・技術面など広いことを知る機会になったので、いつか自分でお芝居や企画をしたいなと考えるようになった。
そんなかけもち期間のラストに大学の演劇部の有志メンバーで作られた、「すごい劇団」第十回公演の音響オペレーションをしないかとよくお世話になっていた四回生の先輩に声をかけてもらった。舞台は黎明館二〇一。広い教室にイントレと呼ばれる工事現場で使用される金属の足場を複数建てたり、教室備品のイスを螺旋状に組み立て、階段に見立てたりなど、舞台セットは特殊なものだった。私は舞台の裏側にあたる講師席の機材など使い、音響オペレーションをすることになった。
作品は、一九九〇年、夢の遊眠社が上演した野田秀樹脚本戯曲「半神」に新たに演出をつけたものだった。どちらかしか生き残ることのできない、シャムの双子と彼女たちに分け隔てなく接する家庭教師の「先生」が主な登場人物。先生役は4さんだった。
物語の終盤、めまぐるしい場面展開を思わせる音響と光の玉を連射するように光りだす照明。その後、舞台が待っていたのは暗闇だった。少しの「静」のあと、細い、でもはっきりした懐中電灯とともに階段をゆっくりとゆっくりと降りてくる先生。彼は、ブラッドベリの短篇の名作「霧笛」の一部を朗読する。
――霧笛だ、霧笛が呼ぶんだ。君は遠くから来たんだ。遠く深いところから。
確かに自分の渡された通りの台本の台詞を一字一句正確に声に出しているはずなのに実際に「先生」が言葉を選らんでいるように感じる。
――霧笛を鳴らすんだ。響いては消え、響いては消える。
言葉を紡ぐ、編むという言葉がぴったりな優しい声色。優しくはあるけれど、消えそうな、砂糖菓子のようにとけそうな言葉ではなく、子供に言い聞かせるようなそんな色を含んでいるように感じた。


――いく日もかかって。そして、やっとやって来る。やって来る。


トントントンと幼いころ、祖母に読み聞かせてもらったような、落ち着いていて、自分の内に語りかけているようなそんな音。手招いているようなそんな感覚がした。あぁ、惹きこまれる。その時、そう思った。時間的には、そんなに長くなかったけれど、気づいたら、もう客だしの時間だった。脚本・演出は怒涛という言葉が似合うような動きのあるものでインパクトも強かったけれど、自分の頭に残っていたのは、4さんの、朗読の場面だった。
 何で、今もその言葉が忘れられないのだろう。お芝居ラッシュを終え、講義を受けて、友達と話して、時間になれば帰る普通の生活に戻ったうえでふと考える。あの形容しがたい、感覚がなんで忘れられないのか。自分の人生を振り返って思うのは、中学の時に味わった未練が心の中に残っているからではないかと思った。あの時の自分は漠然とした物しか持っていなくて、上手いよという人の言葉だけが頼りだった。だからこそ先生の指導がすべてだと考えていたし、疑問を持って批判するにしても、改善案が、他に道がなかったから、本番も先生のスタイルのまま望んだ。人の読みを見る場がない環境だったから、自分の中で読むことを上手く形にできていなかったから。4さんの、先生の言葉は、声は、そんな私が見つけた、ぼんやりとはしているけれど、でも初めてできた理想図の一部なのだと思う。目線も行動範囲も広がり、成長した今、真っ白な霧の中に浮かんだ自分の道に少しでも線がついて嬉しい。それが、薄い影でも自分の思う目印ができて、それを辿っていけるなら、中学の自分はほっとすると思うのだ。
大学二年生になって今までのようにお芝居に参加するかは、まだ決めていない。自分がお芝居を始めたのは、4さんとの出会いをきっかけに話が繋がってできたレールだったし、あんなにバンバンできるかと言えば、たぶん無理かな、なんて思う。でも朗読やお芝居関連のイベントを学内のギャラリーフロールのような未開拓の場所でしてみたいなと考えている。残りの三年間の中で、どこまで形にできるかはわからないけれど、でも残りの時間でいろんなものを見て、少しずつでも自分の理想をイメージとして固められたら、きっと嬉しいと思う。もし、何かに躓いたら、あの時の一文の台詞を脳内に浮かべよう。
 ――いく日もかかって。そして、やっとやって来る。やって来る。

 

2014年2月末日初稿

2020年2月note加筆修正/投稿

2020年9月修正投稿


【あとがき】
これは大学一年生の時の文章。大学卒業するまで芝居をしてたし、卒業したあとも少しだけ関わっていた。物作りは今でも好きだ。でも、芝居やってた頃に戻りたいかと言われると首を傾げてしまう。今でも手伝いをするのは好きだし、キライになったわけじゃない、と思う。当時は至らない点が多すぎてたくさん迷惑かけてしまった。お世話になった人たちには一生感謝する。あと、今でもこの4さんという先輩が大好きです。